石けん学のすすめ       Anri krand くらんど

エピローグ「水と緑の国へ」

* デイーセンシー(慎み)の心

 「こっつん、こっつん 打(ぶ)たれる土は よい畠になって よい麦生むよ。 朝から晩まで 踏まれる土は よい路になって 車を通すよ。 打たれぬ土は 踏まれぬ土は 要らない土か。 いえいえそれは 名のない草の お宿をするよ」

 これは大正の童謡詩人、金子みすヾの「土」という詩です。人の自然に対する慈しみが、ポロポロこぼれてくるようですが、それだけでは納まりきれない精神の奔流がかいまみられます。すべての内面にある生命、感情、慎み、存在に対する感受性といったものが、瞬時にあふれて辺りを覆っていくようです。視るという行為が、人の本質をあらわにする行為であることが分かります。

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  decency という言葉があります。礼儀とか慎み深いとかいう意味ですが、最近、学問の基本姿勢(コンセプト)としてつかわれています(村上陽一郎「安全学(青土社1998)」)。環境のテーマでもつかわれています(小野芳郎「水の環境史(PHP研究所2001)」)。簡略に「慎み」と訳しておきますが、環境をいうとき人の心に decency(慎み)があるということは、考えや行動にアプリオリ(先験的)な規範があるということです。そういうものが心の中にあるかどうか自分に尋ねてから環境を語るようにすると、ものごとがもっとはっきりするかもしれません。

 人はいつも自分のことは分かって考え行動していると思っていますが、かならずしもそうなのではありません。他人のことはよくみえることはあるかもしれませんが、自分のことは概してよく分かってはいないものです。自分か自分のまわりがつくっている自分の姿があって、それに当てはまるように生きていたりします。なにかを止めようと思ったときにみえてくるものが、かえってほんとうの自分だったりします。そのときいちばん先にみえてくるものが、ものごとに対する、自分の自然な感受性といったものです。decency(慎み)はそのすぐ隣りにあるものです。

 フェリーニの「道」のザンパノは、人が数年の単位で仮の人生をおくっても知ることがないことを示唆しています。「道」のほんとうのエンディングは、海辺の号泣などではありません。ザンパノが、洗濯物の白いシーツが干されていくかたわらに立ち、何気にジェリソミーナが死んだと聞くシーンです。音がなくなったようなあのシーンです。

 ちなみにタイトルの意味は、たぶん「明日もどこかの道の上」というほどの意味でしょう。「あさっては雨」というジャルソミーナのせりふがありますが、これも(天候の影響がある)旅芸人の生活をいうのでしょう。まちがっても漂泊をいうのではありません。行きずりの土地にトマトの種をまくのも、「道の上」が生活の場であるためです。「(芽の出るころ)いつかまた戻る道」というほどの意味でしょう。ジェリソミーナの無上の美しさは、いわば(世界への)肯定の美というべきものです。

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  産業革命以降の人と都市の発達は、ひたすら環境から資源を略取し不用物を排出して環境を汚染してきました。継続的に自然を破壊して山河と海浜を汚濁させてきた歴史です。そのアンチテーゼが現在という時代です。したがって環境問題とは、本来的に負の遺産となっている資源を、なんらかのかたちで返還することと、3世紀前にあった本来の自然と大地を、ふたたび蘇らせるためになんらかの対価を補填することという、いわば関連する2重の責務が私たちにある(認識)ということです。植林をはじめ森林保護などの活動(及び環境保全活動)が、その返還・補填の具体的な履行ということになりますが、現実は復興への計画的な行動が行われている訳ではありません。とはいえ、いつかはそうありたいと希求する精神は、保持していなければなりません。

 当面、環境の実情はそれどころではなく、認識も行動もそのずっと手前のライン、つまりこれ以上の環境悪化は食い止めようというライン上に立っているにすぎません。生存の目的のために、人間の社会的経済的活動が歯止めなくつづけている負荷の拡大からすると、それはもちろん不可欠なことですが、必要最小限の責務でもあるという現実は、肝に命じておかなければなりません。とりあえず行動は起しているという点を掲げて免罪符にしてしまうなら、まったくの筋違いというものです。環境が本質的に decency をもって考える対象であり、功利や経済が先行するのではない理由がこれです。負の責務が先にあるからにほかなりません。

 ただ行動するときに至って、はじめて功利と経済を考慮します。一過性で無く、行動を継続していくために、無理のない目標と計画を立て、フィードバックしながら進めていくことが必要です。功利と経済は、組織を将来にわたって、維持発展するという目的のために必須であり、利潤の最大化が本来の目的ではありません。

 子どもに対する親の姿勢も、大人の都合より、子どもを理解しようとする行動が先であり、そういう認識の契機となるのも、愛情というアプリオリな存在にほかなりません。すると「環境共生」という言葉もあまりに安易です。人間は生物の1種に過ぎませんが、すでに地球とも生物とも隔絶してしまった生き物です。人間はすでに棲み分けてはいません。自然対人間、環境対都市という対峙が厳として存在します。それなら人間のとるべき途は、環境の中で人のすまう都市をひたすら孤立させることにほかなりません。

 新たな資源の採取を止め、都市の生産と生活の残滓は、内部で循環して排出を止め、その上で環境への物質的な返還と、水と緑の復興へ投資していかなければなりません。これは都市の側から「環境を閉じる」ことです。

 棲み分けのために「環境を閉じる」という提案をしたのは、嚆矢の環境学者末石冨太郎です。その本質をのべた「(破局からの青写真)都市環境の蘇生(中公新書1975)は、日本がまだ環境といわず公害といっていた4半世紀前に刊行されています。「環境容量論environmental Capacity」といい、人間の生産・生活廃棄物を都市界(人間界)に止め、止める段階を1から4まで設定しています。自然と都市との境界があり、自然の側の環境容量を1とすると、環境容量1は原理的に0(ゼロ)となります。

 ゼロの現実的な意味ですが、「分解可能な有機物質をごくわずかに蓄積させることは可能だが、運用はあくまで自然の荒廃を防ぐ限度にとどめるべきである。(略)ゼロであるべきとした環境容量1は、自然の浄化能力の限度としての値を求めてはならない。環境容量1は、私たちが関与できるとしても、せいぜい心理的な評価にとどめておくべきである」とされています。実際は「環境許容論」として曲解、利用された経緯もあるようですが、都市(人間界)から環境(自然)への排出は原理的にゼロという末石富太郎の命題は、25年後の現在、あらためて咀嚼しておくべきことでしょう。

 環境容量は原理的にゼロという自然へ、どんなものにしろ(有害物質は論外です)分解性の劣る化学物質を放出してはいけません。少なくとも河川への負荷低減のため、河川中で(海域に出てしまわない1日24時間以内で)究極分解できる物質以外は放出してはいけません。原理的にはそのすぐれた生分解性物質すら回収すべきであって放出してはならないものです。それが原理原則であり4半世紀の現在もこのテーゼは更改する必要がありません。

 洗剤でそれが可能なのは、石けんと非イオン合成洗剤のDA(脂肪酸アルカノールアミド)くらいです。かろうじてそれにつづくのが陰イオン合成洗剤のAS(アルキル硫酸エステルナトリウム)とAOS(アルファオレフィンスルフォン酸ナトリウム)は1日で90%究分解しますが、10%究極分解するためには全5日を要します。以外の合成洗剤は究極生分解性の比較する俎上にすらのりません。すべて河川から海域に出てしまいます。海域での分解は河川より遅く、とくに閉鎖性海域では現在進行形の問題をかかえます。

 夢をわらってはいけません。理想を否定してはいけません。現代という時代は夢と理想が不可欠な時代です。青い発想をたいせつにしなければならない時代です。遠まわりもしなければならない時代です。私たちが環境をいうとき、そういう信念がなにより必要なものでしょう。そしてその場のその時の対処でなく、未来を視野に入れた対応をしていかなければなりません。心根にしっかりともっていなければならないものは、批判の上に立った、無限の肯定の精神であるべきです。日本という国がふたたび水と緑の国といわれるために、私たちはかぎりない decency をもって当らなければなりません。儚いような石けんが人にそれを教えてくれます。

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