石けん学のすすめ       Anri krand くらんど

プロローグ「石けんへの緒言」

* 石けん、大いなる遺産

  ディッケンズに「大いなる遺産」という本があります。原題は Great Expectations ですから直訳ですが、昔の日本語訳というのはイメージのためか割と原題にこだわっていません。「レ・ミゼラブル(惨めな人々)」は、「ああ無情」という日本語タイトルで知られていますが、草創の文学者、黒岩涙香の意訳です。素でみたら古色蒼然ですが、不自然に感じないのは、早くから人口に膾炙しているためでしょう。古典が古典である証左です。映画の世界も同じようでした。ジャン・ギャバンの「望郷」は、主人公の名 Pepe le Moko(ペペ・ル・モコ)が原題でした。「巴里祭」も原題はフランス革命記念日の Quatorze Juillet(7月14日)です。

 そうでない方がもちろん多く、フェデリコ・フェリーニの「道」の原題は La Storada で、Road のことですから原題通りです。この不朽の名画が、なぜ「道」というタイトルをもつのか不思議です。聖書に原典があるという話がありますが、そうばかりではないでしょう。ジェリソミーナのくりっとした微笑は、人々の索漠の人生のさなかに、いまも燦然と輝いて止みません。
 

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 「邂逅(めぐり逢い)」といいますが、人と人との出逢いだけをいうのではありません。人と本や音楽との出逢いも一生一度の邂逅にほかなりません。めったに起こらないのですが、それだけに心の奥底にある琴線に触れてきます。私のような本の虫だと、友人の数より本の数がはるかに多いという状況になりますが、それでも本当に必要とする本は、数種類数10冊に限られます。その限られたものの中身が、ほとんど私の精神そのものといっていいものです。サイズは多様ですが、重さで約600kg、厚さで約2mくらいのスピリットです。

 さて、石けんという化学物質は、いま現在も現役のものですが、産業的な対象と学問的な関心からは外れています。膨大な化学的な成果は、石けんの黄金時代の終焉であった半世紀前に完成の極をみて、その後は一気に衰退しています。コロイド化学と界面化学の進捗も、合成界面活性剤に貢献することはあっても、石けんになんら寄与することはありませんでした。

 けれども、とりあえず(野放図な)添加物の問題を棚上げすれば、いまでも石けんは、普通にもっとも好んでつかわれているものです。台所用と住居用は合成洗剤がほとんどで、洗濯用の洗剤も合成洗剤が圧倒的ですが、シャンプー・リンス・浴用・洗顔・手洗いなど身体用洗剤全体では、いまだに石けんが4半分を占めています。浴用・洗顔に限ると4割弱を維持しています。あとの6割強が合成洗剤が主役の洗顔料とボディ用洗浄剤です。

 純石けん・無添加石けんにこだわると(私はこだわります)、この割合は激減します。洗濯用粉石けんと洗濯用粉末合成洗剤の割合は、現在3.3%強対96.7%弱ですが、浴用・化粧の純石けん・無添加石けんとその他の石けんとの割合も、そのくらいかもうすこし高めくらいとみられます。つまり4割にちかいシェアをもつ浴用・化粧石けんといっても、そのうちのほとんどは合成の保存料・金属封鎖剤・着色料・香料が入っています。純石けんとも無添加石けんともいえませんが、もちろん石けんであることはかわりありません。

 ひるがえってこの半世紀は、石けんが後退していく歴史でした。20世紀中葉以降、最新の化学を標榜する合成洗剤が、破竹の勢いで生長し、早晩石けんを駆逐してしまうようでしたが、予想に反してそうはなりませんでした。普通、新しい産業技術は、古い産業技術を圧迫してのち、それに取って替ってしまいます。少なくとも19世紀〜20世紀の成長の時代には、そう信じられていました。すべてのものが右肩あがりに発展していたシンプルな時代でした。

 今はもちろんそうではありません。21世紀の現在、「成長の限界」があきらかにみえ、「持続可能な発展」が日々模索されている時代です。石けんが生きのびたのは、予想に反したのではなく、石けんを愛する市民が、つねから安定した少数いて、石けんをしっかり守ってきたからです。時代を超越した愛好にほかなりません。

 その理由に、石けんが生来つかいやすく、感触にすぐれ、日本の場合はさらに環境に恵まれていたという、有為な背景があります。清潔好きの国民性というよすがと、世界でも希な「軟水の国」であったことが、石けんへの情操を育んできました。アメリカの半ばとイギリスの1部と、以外のヨーロッパ諸国は、どこも名だたる硬水の国でしたから、硬水につよい合成洗剤の普及とともに、石けんは絵に描いたように蹴散らされてしまいました。

 それでも世界の片隅の、1部の人たちの手によって、石けんの伝統は守られてきました。アメリカのハンドメイド・ソープメイキングの敷衍と、ヨーロッパのサボン・ド・マルセーユの温存などが、そのあらわれです。オリエント地方でオリーブオイル石けんが、いまだにつくられつづけているのもその1つです。

 アジア・アフリカ世界では、1部産業的後進という理由から、石けんはいまだに現役ですが、発展と並行して合成洗剤がシェアを伸ばしています。 日本では最後の砦みたいにしっかり守られてきました。世界でもっとも石けんを愛している国民といっていいでしょう。環境もさることながら、清潔好きの国の石けんが、浴用・化粧という分野で、完成をみていたという証左です。文字通り大いなる遺産です。

 化学工業のひとつであった繊維工業は、セルロース系再生繊維・半合成繊維・純合成繊維などの化学繊維が陸続とあらわれた後も、天然繊維が繊維の主流を占めています。人類史的といっていい愛着があって、不都合な側面もすくなかったために、化学繊維に取って代られることがありませんでした。もちろん偶然なのではなく、これも完成をみていた繊維であったためです。石けんもコットン・リネンなどの天然繊維に近いポジションをもち、レーヨン・キュプラなどの再生繊維と組成のありようが似ています。

 そのために石けんは、生来、皮膚との親和性があり、自然(河川)に放出されても、1日で100%究極分解されるほど生分解性にすぐれています。水生生物を脅かす生態毒性がなく、海域を汚濁する窒素・リンも含みません。合成洗剤にはそういう性質を合せもつものはすくなく、日常に多くつかわれながら、それらの負荷のどこかに抵触したりしています。石けんはひとり人と環境のために飛び抜けています。

 環境が人をつくります。豊潤な環境はゆたかな人をつくります。そして石けんは、その恵まれた日本の清冽な水にとても似合うものでした。清潔好きの日本人にとっては片隅にコトリとおさまる品物でした。きれいな白皙の容貌があり、さわやかな手触りと泡立ちがあり、なにか1つもっていくとしたらと聞かれて、「石けん」と答える人がいるくらいに、誰からも愛されていました。

 過去形ではありません。今でも愛されています。ただ昔とは違ったところもいくつかあります。愛着があっても生活の「よすが」のようなものが欠けています。なにかこころの伝統といったものが保存されていません。半世紀前「化学の華」であった「石けん学」も、ほとんど忘れさられています。

 文明には時々こういうことが起ります。忘却された技術のなかには、たとえば植物文化とともに華ひらいた精緻な匠の技などもあります。いくつかの技術は今に伝承されず、記録として残るに止まります。石けんも同様の運命にさらされましたが、石けんの場合は1度発展がストップしたものとしては異例の、維持と保存のための注力がはらわれ、市民の手による復興のきざしもみえています。

 それはもちろん環境のためです。身体もその1部として抱合する地球の環境のためです。石けんに対する知識も、ふたたび必要な時代になっています。後世から石けんルネッサンスと、この時代が呼ばれることがあるでしょうか。

 石けんを愛するすべての人たち(とその子どもたち)へ、このデジタルの本を捧げます。

2002.5 Anri krand くらんど

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