石けん学のすすめ Anri krand くらんど
「ああ、無垢だ」と、吐息みたく呟かれる言葉に、私たちはたとえば幼い少女を思うでしょうか。そんな殊勝な子どもはいまどきいないという人がいそうですが、決してそうばかりではありません。「無垢」は、「純粋・清浄・無地・無穢 ・無混・純白・純金」などをいいますが、どこか染み入るような語感があります。
自分は汚れているが、世の中には染まることのない清らかなものが稀にある、それだけで生きる価値が生れてくるような存在で、決して無闇に手折ってはならないものだと。その可憐なものが、ふいにこちらをみて下卑た悪態をついたとしても、幻滅などしてはいけません。内側に息づく無垢は、いくばくかは真実であり、存在そのものもこの世ではしばしば表層を隔絶するからです。
人は信じることがまず先になければならない、いまはそういう時代です。
石けんという言葉のかわりに、純石けんという言葉が言われるようになったのは、割と最近のことです。保存料(殺菌防腐剤)・酸化防止剤・金属封鎖剤・着色料・香料(いずれも合成化学物質)などが入っている「化粧石けん」が、石けんと呼ばれていたために(現在もそちらが圧倒的です)、そういうものが入っていない化粧・浴用石けんを、とくに「純石けん」と呼んで区別したのがはじまりです。無垢(混じりけない)な石けんのことです。
無添加石けんという言葉もあり、純石けんと同様な意味でつかわれますが、意味合いには温度差があります。純石けんは、「純石けん分」以外のものを含まないという意味で無垢であり、とくに純石けん分が高い(純石けん分98%・99%)ものを指します。無添加石けんは、石けん以外の添加物を入れていないという意味であり、純度にこだわりません。そのため、原料由来の不純物・夾雑物をわずかに含むことがあり、天然物(および天然物に準じる負荷の極少な化学物質)が添加されることもあります。どちらも無垢な石けんであることには変りありません。
「表示指定成分無添加」という化粧品・石けんが過去あり、全成分表示の施行とともに廃されていますが、もちろん無垢なものではありません。表示義務のない添加物が入るのは自由ですから、純せっけんや無添加石けんの条件になる、天然物(および天然物に準じる負荷の極少な化学物質)のみ配合、という基準に適合しません。
ただ「表示指定成分」は、薬事法によってハザード(被危険性)の可能性が指摘されていた、化粧品・医薬部外品173成分(化粧品のみでは102成分)のリストですから、市民のリスク(冒危険性)管理の指標としては、それなりに意味あるものでした。保存料「パラベン」、酸化防止剤「ジブチルヒドロキシトルエン(BHT)」、酸化防止&金属封鎖剤「エデト酸塩」、着色料「タール色素」、香料「合成香料」などが代表的なものですが、市場にでている大手メーカーの化粧品・化粧石けん・医薬部外品には、かならず含まれていたものです。現在ももちろん含まれてます。
それら表示指定の意味を知ってはじめて、無添加の化粧品・石けんに切り替えた市民は決して少なくはありませんでした。思慮深い市民にハザードへの注意を喚起する役割を果たしてきたのですから、ただ廃止するのでなく、全成分表示の上で、旧表示指定成分はなんらか標して区分しておくべきだったかもしれません。
さて、現在の化粧品・医薬部外品の全成分表示は、配合可能成分(ポジティブリスト)、および配合禁止・制限成分(ネガティブリスト)のうちの配合制限成分との2つのリストによる、「配合量順全成分表示」というものです。ただし濃度1%以下の成分については順不同でよく、着色料は最後に表示、香料は一括「香料」とのみ記載することになっています。配合禁止・制限成分(ネガティブリスト)中の配合禁止成分は、もちろん使用不可ですから配合もされません。
厚生労働省の管轄内の「化粧品」に該当する石けん(身体につかう浴用・化粧石けんとシャンプー)は、したがってこの配合量順全成分表示になります。洗濯用石けんと台所用石けんは、経済産業省の管轄による「家庭用品」ですから、家庭用品品質表示法によります。純石けん分%の表示と、洗浄補助剤がある場合、1%以上は機能名称のみ表示(アルカリ剤)、10%以上は機能名称と種類名称を表示(アルカリ剤(炭酸塩))します。
石けんに洗浄補助剤のりん酸塩が入る場合は1%以上で種類名称と%の表示が必要になり、金属封鎖剤が入る場合は水軟化剤(アルミノけい酸塩)等の表示、石けん以外の界面活性剤が入る場合は、複合石けんという表示に変更して、界面活性剤の含有率の表示が義務になります。一応配合量順全成分表示といえないことはありませんが、補助剤などは1%以上の表記義務がありながら、アルカリ剤・漂白剤・蛍光増白剤・水軟化剤・分散剤等、機能表示でいいなど、不完全な成分表示になっています。
ひるがえって、今という時代は、無垢という言葉自体が大事なキーワードです。無垢(まじりけない)は、無辜(罪のない)に通じます。私たちの身体と、身体もその一部である環境が、無垢のものを希求して、そうでないものを拒絶しているからです。
無垢なものというのは、身体を構成しているもの、栄養として摂りこまれるもの、身体にもとから親和的なもの、そして環境を損なわないものなど、そういう物質のみでできているものです。いわば生体と連鎖・調和の関係にあるもののみをいい、以外のすべての化学物質は「潜在的な毒性」をもつものとみなされます。毒性学が「生体異物xenobioticsゼノバイオティクス」と呼ぶものがこれです。そして生体異物はそのまま環境異物と言いかえてさしつかえありません。無垢でないものはみなそれに該当します。
ちなみに化学物質の安全性をはかるモノサシも、変えていく必要があります。たとえば、急性毒性の指標であるLD50値は不適切なものです。サリドマイドは鎮痛作用をもつ「ほとんど無毒」というLD50値5,000〜10,000の物質ですが、あの悲惨な薬害をもたらしました。合成のとき不可避的に生み出される異性体の存在が胎児に奇形をもたらしたのです。慢性毒性の指標であるNOAELと、NOAELを不確定係数で割ったADI値(許容1日摂取量)も、安全性の判断の上からは、妥当とはいえません。NOAELに設定されている安全性の最少容量「しきい値」が、確実な保証にならないためです。
化学物質の影響がゼロになるのは、結局、使用量がゼロの場合にほかなりません。つかわないのが基本原則であり、つかわなければならない場合は、LD50・NOAEL・ADI値などによらず、生涯(70年間)発がん率を10のマイナス6乗(生涯100万人に1人)となるような決め方、「VSD値」のようなものが、かろうじて安全を許容できるものでしょう。
純石けんがクローズアップされている理由は、純石けんがそれら生体異物とは一線を画すためです。市場に普遍的な一流メーカーの化粧石けんは、先のように保存料・酸化防止剤・金属封鎖剤・着色料・香料などの合成化学物質を含んでいますから、無垢のものから除外されます。同じく市場に敷衍的な合成洗剤は、組成的に生体異物とみられ、水生生物毒性の可能性があり、水質汚濁への懸念も払拭されていません。純石けんは化学物質ではありますが、合成化学物質とはあえていわれず、あくまで無垢なものとして、身体と環境に親和的なものです。
「無垢(混じりけないこと)」と「無辜(罪ないこと)」は、本来別の言葉ですが、キリスト教の「原罪」からすると、共通項がないこともありません。幼い子どもはそのまま無辜なものでもあるはずですが、そうでなく人は生まれながら罪を負うというというのがキリスト者の教義です。日本人には納得がいかないのですが、異議を唱えるのは日本人ばかりでなく、ロシアのイワン カラマーゾフ(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」)は、拳を突きあげて神に抗議しています。
無垢であって無辜ではないとしても、それは子ども本人のせいではありません。人生を完結せず、幼くして病んでいくことがあるこの世の不条理は、不条理のままただ放置されています。神があるならそういう神はいらないとイワンは叫んでいます。カミュの「異邦人」の叫びもこれです。
半世紀前の実存主義の勃興の後、神は棄てられ、欧米とアジアの世界観も歩みよりましたが、摂理としての不条理は不条理のまま残されています。それはまだ怒りの拳を突きつけるに値しますが、否定の不可能な現実として佇立しています。それだけに天意によらない人為による不条理だけは許されません。人は人のなせるわざで傷ついてはいけません。病んではいけません。人のつくりだした化学物質のありようも、それを遵守しなければなりません。
先の添加物はあきらかに汚染源、いわば意図的な汚染の一つなのですが、汚染源はそれだけではありません。意図的でない外部・内部からの汚染があります。意図的でないために、意識から外れるということも起ります。そのとき、化学物質は、通常その化学物質のみでできていると錯覚してしまいます。事実はそうではありません。たとえば、石けん(脂肪酸塩)なら RCOOM (R は脂肪酸基、M はアルカリ金属)、アルキル硫酸塩なら ROSO3M、ポリオキシエチレンアルキルエーテルなら RO(CH2CH2O)nH という化学構造が洗浄剤の本体ですが、それが組成の全部ではありません。
未反応原材料がすくなからず残留し(内部要因)、製造工程の各場面ごとに、外部からたえまなく汚染されます(外部要因)。外部要因の方がはるかに多いのが実情です。製造プラントの構成物質もその1つで、組成の金属・プラスチックは、高温・酸・アルカリなどにより遊離して、容易に製品に混入していきます。使用する上水も汚染原になり、水の硬度成分(カルシウム・マグネシウム)も、プラント内部に沈着するとともに、製品にも影響をあたえます。
プラントが他の化学物質と共用であると、その化学物質がプラントの壁床を経由して紛れこみます。交替時に洗浄剤や溶剤をつかうと、わずかでも残留して製品に浸透していきます。原材料そのものが、製造・精製される過程で汚染されていれば、その汚染物もひきずってしまいます。保存・運搬のためのスチール缶・ドラム缶からは、鉄分などが遊離してきます。
眼にはみえないために、意識から欠落したり、しばしば化学物質を考える盲点になります。合成洗剤の弊害も、もっぱら化学構造から説明されますが、製造過程が複雑なために混入してくる夾雑物については、ほとんど触れられません。けれども、すべてのハザード(被危険性)は、かならず物質本体と、内包する夾雑物の両者から検証されるべきものです。何が内包されているかという問題は、すべての可能性から予測されなければなりません。
食品添加物は、食品に意図的に添加されるもので、農薬など食品に残留するものは、半意図的に加わるものです。そして土壌から、あるいは収穫時・梱包時・運搬時・陳列時など個々のプロセスから否応なく混入してくる物質があると、意図しない夾雑物・不純物を抱え込むことになります。後2者のものが不可避的な夾雑物で、これら非意図のものは、さらにプロセスの補助的構成物原料に由来する夾雑物もふくみます。
無垢なものを求めるという行為は、それらの意図的・半意図的・非意図的な佩帯のすべてを考慮して、できるだけ避けていくという行為であるということになります。モノが本来もつ多面的な問題点です。したがって、それら眼にみえない夾雑物とそのハザードを考えるとき、指標になるのは、まず、製造プラント・システムの違いから生じる汚染の多寡です。
とりあえず洗浄剤の場合、身体と環境への影響をはかると、石けんの汚染はプロセスの少ない分低く、合成界面活性剤のそれはプロセスの数に比例して高くなります。石けんの他の洗浄剤に比して特筆されるアドバンテージです。石けんの製造システムは、伝統の製法によって容易に純石けん分98%に達し、より手間をかけうことで99%に到り、さらに原料からプラント管理まで、技術をトータル駆使することで、夾雑物皆無という純石けん分99.9%以上のレベルに到達できます。製造プラントも、正統なものは「石けん窯」と呼ばれる蒸気窯をつかうもので、石けん以外の目的にはつかいません。
したがって製造プロセスから移ってくる可能性は、原料からくるものと、けん化窯(および型打・型枠・切断等)の材料金属からくるものだけといって差し支えありません。けん化窯等が破傷のないステンレス鋼(鉄・炭素・クロム・ニッケル)のものなら、移ってくるものはまずなく、油脂に由来するステロールと、水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)に由来する塩化ナトリウムが、0.01%未満の残余の正体になります。どちらも精製時に残留している微量成分ですが、生体には影響のない夾雑物といっていいものです。
以外に考えられる負荷は、油脂を採油するときに多くつかわれている石油物質ヘキサンの残留です。油脂に通常は1ppm未満、多いケースは20〜30ppmあります。揮発性大で微量といっても、水生生物に対して毒性が強く環境に放出してはならないない物質です。また、油脂の保存用のスチール缶からは、鉄が遊離して混入する可能性があります。鉄は石けんの酸敗の遠因になり、洗濯物などの黄変の原因になります。粗製の(廉価な)油脂には、以外に雑多な事由に由来する夾雑物が、わずかでも混入している可能性はなくはありません。
ひるがえって合成洗剤の場合は、考えられるすべての場面が、石けんと対極的です。化学合成にともなう化学原料は、それぞれ多様なプロセスを経てつくられていて、それ自体が少なからぬ不純物・夾雑物を内包します。化学反応ももっぱら急速を旨とするため、完全な反応の完結に限りがあります。したがって、製造段階の最初から、もとからの夾雑物と未反応物質が、一定のレベルで残留しがちです。
プラントが各種の化学物質の製造と共用であれば、プラント自体が多くの石油化学系残留物を帯びています。その場合は原料からの負荷以上に、石油化学系の夾雑物(芳香族炭化水素など)が、間断なく混入してきます。すなわち石油化学系の合成物質の場合は、製造上のすべてのプロセスとプラントが、石油合成化学に由来するものです。プロセスのどのパートからでも不純物・夾雑物の混入が起り、また予期せぬ異物の侵入もありえます。
もどって合成化学プロセスは存在全体が眼にみえにくく、意識からも欠落しやすいために、ともすれば化学物質のブラックボックスといっていいものになりかねません。箱の中身は、白日の下にさらされないまでも、きちんと承知しておかなければなりません。もちろん完成段階で精製を重ねていけば純度が高まり、その分不純物・夾雑物も排除されていきます。ただそのプロセスとプラントの選択は、製品の価値とコストとの兼合いになります。したがって多くの製品は妥協の産物であり、不純物・夾雑物は、いくばくかかならず残留します。
裏に潜む、これらの不純物・夾雑物は、それ自体が生体異物であるとともに、表の本来の化学物質の作用に、微妙な、質的・量的なブレを起します。化学物質は断えず汚染され、汚染された夾雑物は、あらたな汚染物質になります。合成化学物質が本質的に抱えつづける問題です。日常的な使用を控えることを考え、代替物がないかどうかを模索していくことも必要かもしれません。
一方で、そこまで考慮する必要があるのか、化学物質の純性はそこまで追求されるべきかという意見があります。結論は問いに対してイエスです。ノーなり中庸をとろうという発想は本質から迂遠になるだけです。なぜなら、それは自分のためでなく、家族や友人、身の回りにいる多くの身近な人々の、継続的な将来にかかる問題だからです。とりわけ子どもたちにかならずふりかかっていく問題だからです。
有り体にいえば、化学物質がその質量ともに膨大なものを流通している現状だから、今日的な問題となります。質量ともに寡少であった時代(19世紀までです)には、自然の浄化作用も満遍なく機能していました。自然の1部である有為な微生物が自ら進化しつつそれらの負荷を抑え込んできたのです。その規模を超えた時点から、世界は汚染されつづけ、汚染を回復する余地すらも失ってきたのです。要するにすべての化学物質はなんらかの抑制が必要です。必要最小限の物質で済ませる製造・流通、そして生活も試みなければなりません。そしてその必要最小限の物質は、身体にも環境にも負荷をかけない物質でなければなりません。創造そのものが原罪であるなら、ダメージの少ない罪であろうとするのが人間の知恵というものでしょう。40年前にレイチェル・カーソンがすでに警鐘をならしていた背景は、いまも厳然として同じ背景のままでありつづけています。
私たちは普段はひたすら消費するのであって、製造はしません。それでも割とシンプルなものは、製造のプロセスが想像でき、試みに自分でつくったりすることもあります。材料の種類がわずかで容易に入手でき、設備というほどでなく普段の生活のレベルで応用が効き、後は手間をどうかけるかという話だったら、試してみる人も多いでしょう。草木染めなどもそれです。伝統のハーブ類はもとより、カテキンの抗菌・抗臭力をもつ緑茶染めも最近のはやりです。草木・緑茶のほかは、酢を準備するくらいで染まります。鉄酢酸・鉄漿(おはぐろ)など媒染剤をつかって、本格的な木綿染めを試みるのも、そう難しくはありません。肌にじかに接するTシャツやソックスなどには最適です。
ハンドメイドのソープメイキング(手づくり石けん)が流行ってきているのも同様です。材料は油脂と苛性アルカリ(水酸化ナトリウム・水酸化カリウム)という2種類だけです。コールドプロセス(冷製法)なら、とくに窯を必要とせず、それなりの品質の石けんがつくれます。そういうシンプルさが多くのソープメイキング フェローシップの原動力です。無添加の無垢の石けんですから、大手の石けん・化粧品メーカーのそれと一線を画す点もかけがいがありません。
すべての原点に、石けんが組成的に単純であり、手をかけるほどいいものができるという特質があります。それは他の趣味のモノづくりに通ずるものです。工業的である以上に家内製手工業的であるためです。製造工程も、酒類の醸造、味噌・醤油の発酵などによく似ています。プロセスがシンプルで目にみえます。合成洗剤が、誘導体をつくるための誘導体が必要であったり、不要になった物質が回収できなかったり、組成的に含有している夾雑物があったり、化学反応が不安定であったりする複雑さと対極的なものです。石けんには余分なことがほとんどありません。
伝統的な(そのため今日的な)石けん、ナトリウム石けんの製造法は、今日の大手メーカーの石けんのそれとも大きく異なっています。油脂の全量を窯に入れ、アルカリを小分けに注加・攪袢しながら焚込み、塩をくわえて下部に落ちる不純物を分離(塩析)し、析出する上部をとりだします。それぞれの工程に、質(粗雑と緻密)と量(回数)の差異があり、それらがストレートに製品のレベルに反映します。一般に窯焚けん化法というこの純石けんの製造法は、煮沸法・熱製法・窯焚法などいい、他の製法と区別するために、フルネームでは「窯焚けん化・塩析法」といいいます。
純良なこのような純石けんは、現在、日本では数えるほどのメーカーでしかつくられていません、中小企業に属する石けんメーカーばかりです。古来からの技術の伝承を体しているのもこれらの小規模工場です。大手洗剤メーカー・化粧品メーカーの石けんは、上の「窯焚きけん化・塩析法」ではつくられません。大量生産に向く「急速(連続)けん化法(油脂原料)」、「急速(連続)中和法(脂肪酸原料)」などの製法でつくられます。効率(経済性)を第一として収益を維持するためにほかなりません。それは石けんであり決して合成洗剤ではありませんが、品質の均一性のために合成化学物質が添加され、石油化学系の不純物が混入してくることもないとはいえません。
小規模工場による少量生産と、大規模工場による大量生産という構図ですから、価格競争に有利な側はあきらかです。大量消費の時代にはそれがすべてでしたが、一部、個性化する少量生産・少量消費の時代に入って、それなりの得失があらわになっています。個々人の選択に委ねられる範囲も拡がっています。
ちなみに「窯焚けん化法」など、伝統の製法でつくられる石けんは、化学物質ですが、合成物質とは言いません。定義のようなものをいえば、石けんは「工業の沿革(歴史)ならびに製造工程から、合成化学品・合成洗浄剤とは峻別されるもの(三雲次郎:石鹸及び合成洗剤/共立全書)」ということになります。醤油・酒・酢が「発酵」によりつくり出されるように、石けんは油脂とアルカリから、「鹸化(窯焚けん化)」によってつくられます。合成化学物質である保存料・酸化防止剤を添加している石けんでさえ、合成的という指摘があっても、やはり石けんであり合成洗剤とはいいません。石けんに合成洗剤を配合したものがまれにあり、これは複合石けんと呼ばれます。
家内製手工業の時代が終り、大量生産の時代をむかえると(日本ではこの半世紀のことです)、発酵窯も鹸化窯もそれまでの「窯」でありつづけることができず、大規模な「化学プラント」に置き換えられていきます。いきおい効率が最優先となり、流通のため商品の均一性が求められ、微量で効力のたかい合成保存料が添加されていきます。発酵の場合は、いきつく先に合成酒・半合成酒・アルコール添加酒などがありますが、品質の点で醸造酒に徹頭徹尾かないません。鹸化による石けん製造の歴史もそれによくにています。