石けんとのダイアローグ(補稿更新中) Anri krand くらんど
石けんが、わたしにとってなにかということを考えます。そのときどきごとに考えかたがちがってきますが、愛着だけはかわりありません。時代がかわり、世の中の背景が変化してくるだけです。
最近では、石けんが、「未来へ」というわたしたちのテーマのいわば象徴かもしれないという考えになりつつあります。
たとえば、今という時代が必要としている、サステナビリティという考えがあります。サステナビリティ sustainability は持続可能性という意味ですが、わかりにくいかもしれません。
1987年に、国連の環境と開発に関する世界委員会(ブルントラント委員長)が発表した報告書、われら共有の未来 Our Common Future で、「持続可能な開発 sustainable development 」として提唱された考えです。
将来世代のニーズを損なうことなく現在の世代のニーズを満たす開発 Development which meets the needs of the current generation without jeopardizing the needs of future generations と説明されています。
generations と複数形であるため、二世代以上が想定されていることになりますが、およそ半世紀でしょう。そのため世代間責任 intergenerational responsibility といわれます。世代間倫理、世代間正義ともいいます。
提唱は以降、グローバルな展開をみせていき、「サステナブル・デベロップメント」をキーワードとして、1992年に、リオ・デ・ジャネイロで第一回「地球サミット(環境と開発に関する国連会議)」が開催、「生物多様性条約」「気候変動枠組み条約」「森林に関する原則声明」「環境と開発に関 するリオ宣言」「アジェンダ21」が採択されています。
1997年には、周知の「気候変動枠組み条約第3回締約国会議(温暖化防止京都会議)」が開催、先進締約国全体で、2008年から2012年までの間に1990年比で5%以上の排出量の削減を行うことを規定する京都議定書を採択されています。日本の担当分は1990年比マイナス6%ですね。
21世紀にはいり、トリプルボトムライン(経済性、社会性、環境性の三つを決算する)、またCSR(企業の社会的責任)という世界的な潮流を事実上体現する考えかたとして成立し、とくにグローバルな組織・団体の存在意義を問う役割を担いつつあります。
したがってサステナビリティは、いま、環境の側面ばかりでなく、環境と社会と経済の側面において「将来世代のニーズを損なうことなく現在の世代のニーズを満たす」行為を、人間に求めているのです。
これが世代間倫理といわれる理由ですが、それは世界にとって目新しいことにちがいありません。未来へという視点から倫理ということが語られたことはこれまですくなかったからです。必要がなかったというのが適切でしょうか。
自由と平等、個人の主権と博愛など、民主主義の基本原理からは、多数決と、最大多数の最大幸福という「現在」の正当性がつらねかれます。それは過去の不幸と不条理を清算し止揚することですから、もちろん正しい原理にほかなりませんが、無意識に疎外してきたものも存在するということです。
その一つが未来にほかなりません。存在するであろう次世代の人たちにほかなりません。
今になって振り返ると、過去の歴史が現在をつくり、現在が未来をつくるというシンプルな原理からして、現在という時代が、未来を考えることなく存在できるはずはありません。それなのに、未来を考えずにすませてきたのは、人が生きてきた大地というものの包容力にすっぽり依存ができてきたからです。つまり地球はちょっとのことでは傷つかないと思いこんできたからです。要は甘えていたのですね。
温室効果ガスによる地球温暖化問題、また化石原料の枯渇などが、ほんとうの意味でクローズアップされた1990年代後半から、そうしたさしせまった緊急事態が霧がはれるように明らかになってきました。二、三世代後には、温暖化によっていくつもの島嶼が沈み、石油も天然ガスも金属資源も掘りつくされてぽっかり空いた廃坑だけが無残にさらされることになるのです。その坑のいくつかの深奥には、半減期数千年という放射性廃棄物も埋まるのです。
あわせて、自由も平等も個人の権利も、世界の一部の先進国にただ不完全なまま実現して、世界中の発展途上国では、いまだ戦争が絶えず飢餓と貧困も追放できていません。世界の社会的なひずみはいっこうに減ずることがなく、紛争もテロもつねに新たに発生して止むことがありません。
わたしたちのこれからとるべき行為は、したがってごくシンプルです。温暖化と枯渇の問題をかかえる化石原料の使用を減らし、なくしていくことです。再生不可能な金属資源、化石原料系資源(石油系プラスチック)、化石原料系化学物質(石油系有機化学物質)を減らし、なくしていくことです。
あわせてそれら化石原料の争奪に由来するいっさいの紛争を減らし、なくしていくことです。発展途上国に先進国の蓄積を再配分して、経済格差に由来する南北問題と飢餓と貧困を世界から減らし、なくしていくことです。文明の格差を減らし、なくしていくことです。
そうしてみると、石けんという存在は、過去現在のみならず未来のために貴重です。洗浄剤は身体洗浄剤(27%ほど)と衣料・台所・住宅洗浄剤(73%ほど)にわけられ、身体洗浄剤にしめる石けんはそのうち15%ほど、衣料・台所・住宅洗浄剤にしめる石けんは4%ほど、つまり洗浄剤全体の93%ほどは合成洗浄剤です。石けんは7%ほどです(2005年)。合成洗浄剤のうち身体洗浄剤の一部には天然油脂を原料とするものがありますが、全体からすると多くはありませんから、洗浄剤の圧倒的なものは、原料を石油など化石原料に依存しているわけです。
逆にいえば、洗浄剤の7-8%ほどは、石けんと一部の合成洗剤、つまり天然油脂という再生可能な資源からつくられていることになります。天然油脂のうち、純石けんは動物性油脂をつかいますが、以外のほとんどは植物性天然油脂がつかわれていますから、世界の農林業に依っていることになります。つまり枯渇しません。
したがってその消費は、太陽の光と水と大気中の二酸化炭素からつくった炭化水素(植物)を、ふたたび二酸化炭素にもどすことですから、カーボン・ニュートラルです。すなわち温室効果ガスを増加させることがなく、ニュートラルにとどまるのです。ちなみに植物のこの光合成作用は、副産物として酸素をつくり放出します。地上の酸素は悠久の過去にこうした作用でつくられました。
先にいった、わたしたちのこれからとるべきシンプル行為、温暖化と枯渇の問題をかかえる化石原料の使用を減らし、なくしていくこと、再生不可能な金属資源、化石原料系資源(石油系プラスチック)、化石原料系化学物質(石油系有機化学物質)を減らし、なくしていくことに該当するのは、要するに石けんをつかうことにほかなりません。かろうじて植物性(油脂)合成身体洗浄剤をつかうのも、この行為にふくまれるでしょう。
それは、いつか植物からつくった原料(アルコールや油脂)でクルマを走らせることであり、いつか家庭用原料電池か太陽光発電機で電気をつくって洗濯機をまわすことであり、いつか植物性プラスチックだけでつくったダイニング・テーブルで食事をすることにつながる行為なのです。
また、いつかそれらの生産をささえる農林業が、発展途上国に展開して雇用を生み、飢餓と貧困を減らし、なくしていくことを、いつか世界のあらゆるところから教育と文化の格差を減らし、なくしていくことにつながるかもしれない行為なのです。
石けんにはいま、これだけの意義があります。ちいさくきれいな泡にすぎませんが、世界とその未来へのレーゾン・デートル(存在理由)があります。
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